印刷技能検定2級を岐阜県最年少で合格

 「印刷機は上手にセッティングすると、自分の思い通りに印刷が出来上がってきます。そこが醍醐味ですね。印刷機の回る音、インキの匂い、印刷機械の形、すべてが好きです」と印刷への熱い思いを語った山田社長。
 印刷との出合いは、高校進学に際して、当時は珍しい印刷科がある学校を選択したことに始まる。高校を卒業し、迷わず岐阜県の印刷会社へ就職する。
 「この会社で本当にいろいろなことを学びましたね」
 社内は前向きな社風に満ちていた。東京から技術指導の講師が来て、オペレーターの技術レベルアップを図る。三菱重工を含めて各メーカーの枚葉印刷機はもちろん、活版、原色版、輪転印刷機まで、ありとあらゆる印刷機があり、担当させてもらえる。高校を出たばかりの山田少年は、養分と水と太陽の光を存分に得て、双葉がぐいぐいと日ごとに大きくたくましく伸びていくように成長する。その成果は、当時の岐阜県の印刷技能検定2級を最年少の20歳で合格するという快挙に表れる。
 そして、3年後、より大きな市場との出合いを求めて、名古屋市へ。市内の印刷会社2社を経て、独立を果たすのは、1974(昭和49)年、若干25歳のとき。第一次オイルショックの翌年だった。 
 「何も考えていませんでしたね。印刷現場上がりで何も知りませんでしたが、工務を担当したことで、多少業界のことが解ったことが幸いしました。会社を興して、一念発起でやってみよう。がんばれば、何とかなる!と思っていました」
 工場を借り、中古の単色印刷機を1台購入。オイルショックの影響で次第になくなっていくインキを何とか調達し、仲間仕事を請け負い、オイルショックを乗り越えていく。
 このときに購入したのが、三菱重工が技術提携を卒業して最初に自社技術で開発した菊全判単色刷のDAIYA-II-1だった。二和印刷紙業と三菱重工の印刷機の歴史が期せずして重なる。
 「厚紙のコートボールから何でも刷りました。三菱の印刷機は丈夫でしたね。とにかく、持ちがいい」
 ここから、「私の人生の9割は三菱印刷機」「三菱の機械と出会っていなかったら、今の会社はない」と語る、山田社長と三菱重工の印刷機の本格的な出合いが始まる。
18年目の現役選手DAIYA 3F。
2年に1回はCTPを更新。刷版室でフル稼働するCTPシステム。
 1990年には、三菱重工の菊全判4色枚葉印刷機DAIYA 3F-4を導入。同時に20人規模の会社では当時珍しかった2交代制度実施を英断し、短納期がさらに進むお客様の要望に応えていく。この4色機は、18年間でツメ座を1度交換しただけで、今も現役で活躍する。
 三菱重工の印刷機のメリットを伺うと、「長く使える」ことをまっさきに上げられた。まさに同機がこのメリットを体現しているといえる。
 その後、製版部門のデジタル化に取り組み、他社に先駆けて、1993年DTP用のフィルムセッターを導入。「血のにじむような思いで」フィルム出しを行った。
 「たった1枚のB4チラシが出てこなくて、夜がしらじらと明けてきたこともありました」という。こうした試行錯誤により、ノウハウが蓄積され、1999年に当時は名古屋市内で大手印刷会社にもなかった菊全判CTPの導入へとつながっていく。
 さらに新しい印刷商品の開発にも積極的で、光触媒のエアクリーンペーパーやDM用のUV圧着印刷など特徴ある商品をラインナップしてきた。