駆け足で見てきた若草印刷の歩みは、まさに設備投資の連続である。田村社長をここまで設備投資に駆り立てたものは何なのだろう。田村社長は、1967(昭和42)年当時のオフセット手差し印刷時代の思いを語った。
「活版印刷とオフセット印刷の技術の違いにとまどいながらも、当時はジンク版の版面を砂で磨き、薬品を塗って自分で刷版を作っていました。地方都市であるゆえに、製本業者も近くになく、製本も自社で行わなくてはならず、まさに一から十までを自社で行う状態でした。『えらい商売を始めちゃったな』というのが率直な思いでした」
毎日の仕事は多忙を極めた。写植が出始めていたが、筆耕、つまり手書きの版下を使っていた若草印刷では、その筆耕を高崎市内の会社に頼んでいた。
仕事を頼まれるたびに高崎まで行かなくてはならない。1日に5回、6回と高崎市へ行ったこともあった。「しかし、こうした時代があったから、今の若草印刷があります」と田村社長は語る。その繰り返しの中で、一刻も早く内製化したいという思いは、田村社長の中に高まっていったという。 |
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そして、DTPが出たとき、田村社長は「どんなことがあっても、このシステムを入れてやろう。そうしないと、これからの将来がない」と感じ、いち早く導入を決意した。
これが非常にうまくいき、次に導入したのが、デジタルカメラだった。当時の最高画素数である600万画素のデジタルカメラを導入し、このデータを印刷原稿として使用するという、印刷業界の常識の数歩先を行く戦略であった。更に、田村社長はこの撮影料金を無料にするという英断を下す。これがお客様に好感をもって受け入れられた。
「それまでアナログカメラで撮影された100点もの写真の調子をピタッと合わせるというのは神技に近かったが、それがデジタルでは可能になる、これぞ待っていたものだ」と田村社長は、その未来を確信した。この成功がデジタル化に注力する基礎となる。 |
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ゆとりあるスペースに整然とデスクが並ぶ
制作室。 |
デジタル化に対応する社員の育成も大きな課題だ。若草印刷では、製作部門に印刷は未経験だがデジタルに強い2人の若い社員を採用した。この2人が、印刷のデジタル技術を短期間で習得、身に付けた技術を新入社員に伝達していくという形で、社内での養成体制が確立された。現在では、前橋市にある専門学校から、デジタルの基礎技術を身に付けた学生を毎年定期採用しているという。
また、中国の製作会社に制作を発注している。これもインターネット環境の賜物だ。ラフデザインと写真をインターネットで送ると、デザインをして送ってくるという。写真の切り抜きや不動産用の平面図などはお得意で、細かいものを丁寧に行う。 |