澤田氏が印刷を語るとき、あふれんばかりの愛情が感じられる。
 「創業当時の印刷機は手差し機でしたから、私は小学6年生の頃から、“紙差し”をさせてもらいました。小さかったですから踏み台がないと届かないのですが、友だちと遊ぶよりも、おもしろかったですね。ブランケットなどもクラッチを動かしながら拭くのですが、首を曲げて、精一杯手を伸ばしても届きません。機械の隙間から覗きながら行いましたよ。とにかく印刷機をいじっていましたね。インキはニスを入れて練って作るのですが、これもやらせて貰いました。」
 こうして小学校時代から慣れ親しんだ印刷に本格的に取り組むようになったのは、大学卒業後となる。他の印刷会社で工務や営業見習などの修業を終えて、中京印刷に入社する。
 当時の中京印刷には腕に覚えのある職人が多く集っており、澤田氏は、そういった周りの優れた環境に身を置き、紙積から始めたという。
2台のDAIYA3Hが並ぶ工場。
 そして、中京印刷で認めてもらえ始めたのが、昭和56〜57年頃だった。
 「景気が低迷した時期があって、仕事を集めなければということになりましたが、もともと父は外交をするということがなかったので、私自身が営業活動を開始しました。中京印刷の定評ある印刷品質を背景に、修業先で身につけた飛び込み営業で取引先の幅を広げていきました」
 その後、営業部も立ち上がり、同社はますます発展していく。
 「父が現場を監督していれば、変なものは絶対に刷らないという気持ちはありました。理屈ではなく、理論化できないけれど、体が覚えているという部分が父にはありました」