デジタルという時代の風を受けて、前進する新日本印刷。しかし、2代目社長である佐野社長が引き継いだ当初は、経営的に大変厳しい時代だったという。
社長就任後、3年ほどで「印刷会社は堅実にやっていれば意外と赤字が出ないということで、設備投資などを間違えなければ順調に成長できる、これはおもしろいと思えるようになりました」という。
会社の置かれた現状を認識し、そこから大きく飛躍するために、新たな設備投資を行う。このときに初めて三菱重工の
DAIYA
-II-4という最新鋭機を導入する。最初の設備投資に三菱重工を指名いただいたわけである。
しかも、その機械が香川県内でまだ1台も導入されていなかった“菊全判4色機”であるというところに、佐野社長のポリシーがある。
「他社と同じことをしても仕方がありません。需要がないときに先行して機械を入れたのです。最初は仕事がなくてあまり稼働せず、大阪まで仕事を取りにいきました。もともと「地元の仲間仕事はやらない」と言う不文律があり、地元以外の大きなマーケットで顧客を開拓しようという発想があったのです。ですから、大阪に仕事を探しに行ったわけですが、当初はなかなか橋頭堡ができず苦労しました。しかし、努力の甲斐あってぼちぼち受注ができ、仕事が動き出しまして、5年くらいで黒字経営になりましたね」
この
DAIYA
-II-4は、結果的に新日本印刷の大きな戦力になった。
全国的にも4色機が珍しい時代だったので、この地区の菊全4色の印刷を7年くらい独占したという。
会社案内からポスター、パンフレット、カード類など多彩な印刷物を製作。
12年前から毎月社内コンペが行われ、製作されている、オリジナルカレンダー。
他社が導入しない時期に、先を見て投資を行う、佐野社長のこの姿勢はその後も一貫している。だからこそ、いざというときに先んじて、積極的な展開を行うことができるのだろう。
このときに培った大阪のネットワークを拡充するため、昭和58年、佐野社長は単身、大阪に出向き、大阪に営業所を立ち上げる。この時は一人でたいへんな苦労があったという。
この大阪営業所が軌道に乗ると、間髪を入れず今度は東京へ拠点を広げていく。情報の中心地である東京へ、印刷のボリュームがもっとも大きい東京への挑戦を開始する。そのとき武器となったのが、テレホンカードを入れるケースやはがきなどの企画商品である。実用新案特許を取得し、他の印刷会社と一線を画した戦略で、積極的に売りこんでいったという。
昭和62年に東京・青山に事務所を構え、その年に銀座3丁目に移る。そして、いよいよ、DTP、フルデジタル化、デジタル通信を行うために、平成4年、銀座4丁目のビルを借り、一度に4セットのサイテックス社のプリプレスシステムをフルラインナップで導入する。
同時に、東京―高松間をISDNのNet1500という光ファイバー回線で結んで、高松と東京の仕事のしくみづくりを行っている。
そこまで莫大な投資に踏み切った理由は何か。確信をもったのはどういった点だったのだろうか。
佐野社長はこう答える。
デジタル処理してデータをやり取りするというビジネス展開の将来性を信じ、少々リスクをかぶってでも、必ずそういう形になるのだから、やろうということで決断しました。その当時はどこもやっていなかったことが、結果的に良かったと思います
中村弘道都市建築設計事務所の設計による新日本印刷(株)東京支社。
このタイミングがマッキントッシュのDTPが始まる時期と呼応する。企画・デザインから最終印刷物まで責任を持って、きちんと印刷できる会社ということが口コミで広がって、お客さまの信頼を勝ち得ていく。デジタルなら新日本印刷、シーシーエスという高い評価が生まれていく。
しかし、デジタル入稿のルールやノウハウが蓄積されていなかったため、デジタルデータを最終印刷物にしていくためには、苦労が耐えなかったという。
「納期が迫っているのに、徹夜で完成したものにトラブルがあって、うまくデータが入力されていないというケースがありました。仕方がないので、マッキントッシュのデータを変換して、サイテックスでもう一度組み直して最終印刷物までこぎつけたりといったことの連続でした」
当時、銀座4丁目のビルには、全国から、毎日のように見学者が訪れたという。
そして、さらなる発展をめざして、東京に自社ビルを建てる。中村弘道さんという素晴らしい建築家と出会い、設計を依頼。3、4階に40トンくらいの印刷機械が入ることを想定して設計、その制約をまったく感じさせない美しい個性的な建物が完成する。ここが東京の新日本印刷の新たな拠点となる。
通信も、それまでのNet1500から、GTRAXへと進化し、24時間常時接続でデータをやりとりする環境が、ここに整ってくる。